「育った環境の違い」は本当にあるのか
こんにちは、ぐっさん(30)です。
両親健在、特に親の喧嘩は見た記憶がなく、のほほーんと育ったぐっさんです。
よく「育った環境が違う」って言葉を耳にするし、使うと思う。
どんな時?
他人もしくは、親と意見や考え方が衝突したとき。
その相手が、自分とこの先どのくらいの関係値で付き合うか。
使用場面は、さまざまなところに存在する。
恋人と同棲を考えたとき、結婚するとき、上司と、部下と、同僚と、親と喧嘩したとき…(親との喧嘩については、時代も絡んでくるけど)
これから先もその相手が自分に深く、もしくは長いこと関わると予想される相手と衝突したときに頭の片隅に出てくる言葉だと思う。
実際、ぐっさんも過去にいろんな場面に遭遇したときに、この言葉は何度も何度も出てきたものだ。
さてここでふと、ある人物の存在を思い出した。ぐっさんの実の兄である。
同じ親に育てられ、同じ家で育った。当たり前だけど小学校も中学校も同じところに通った。高校はさすがに違うが、兄の友達と過ごすこともたびたびあった。
ほとんどと言っていいほど、同じ環境で育っている。違いといえば年齢くらい。
兄弟で似ている部分は多い。そんな兄とは「育った環境が違う」は存在しないはず。
だから、少し比べてみて検証してみようと思った。
兄との共通点をあげるならば、人見知り、陰気、引きこもり。ぐっさんは軽度だが、兄はかなりの重症で高校を卒業してから1度も働いたことがない。
兄は昔からゲームをすることが好きだった。その延長線でネットにたどり着いたのかもしれない。いつからか兄にはパソコンのウィンドから見える世界が全てになった。その中に存在している人間にしか彼のよりどころはない。自己防衛に入り1番自分自身が傷つかない距離を保ちネットの独自のルールの中で自分自身を必死に守りながら生きている。
ぐっさんはというと、兄と一緒にゲームをすることは度々あったが、やはり年功序列で兄にゲーム機を独占されることが多かったため、いつからかゲームとかをしなくなった。地元から離れたのも、自分を知らない人がいる所でやり直したいと思ったからだ。知らない景色を見てみたい、自分自身の目で確かめたいと思ったのだ。ぐっさんからすれば、自分自身の目で見て、肌で感じる空気が世界だと思っていた。自分を知らない初対面の人だけの土地なら、陰気で弱い自分と決別出来ると考えたのだ。
兄貴も、ぐっさんも現実から逃げた。逃げた先はどっちも自分の知らない世界で自分のことを知ってる人がいない世界。育った環境が同じだから考え方、着眼点は同じかもしれない。だけど、到達地点は、違った。別の現実か、非現実か、、、真逆だ。
根本的に違う答えを導き出したのは産まれ持った性格が違ったからだと思う。
うまれつきの性格は、育った環境なんかでは変わらない。
仮に変わるとすれば、精神をおかしくするまでの負荷がその人に起こりうる他ない。
その答えの方向性が違ったのはやはり、もって産まれた性格の違いであり、人となりの違いなんだと、ぐっさんは思った。
どうやら「育った環境の違い」はまんざら嘘でもなさそうだ。でも、兄貴に直接聞いたわけじゃない。ぐっさんなりに考えた結果、兄貴は自己防衛で非現実世界に生きているって思ってるけど、兄貴なりにぐっさんのあまり家に寄り付かない行動を分析してもらったらまったくトンチンカンな回答がくるかもしれない。だから本当のところ兄貴は「ただなんとなく楽だから」今の状態に落ち着いてるってだけかもしれない…笑
仮にそうだとしても、ぐっさん自身「ただなんとなく」の思いつきで行動するときも結構な頻度であるから、やっぱりまんざらでもない気がしてきた、、、
もし誰かと意見が衝突したときはその人の育った環境まで考えろ、とは言わない。
人付き合いはフェアでなければなりたたない。相手に理解してほしいなら、やはり自分も相手を理解していることが前提だと思う。自分を理解してくれない、と悩む前に自分自身が相手を理解しているのか、歩み寄ってみるのはどうだろう。
その相手の言葉の真意、行動の意味がおのずと理解できて、相手に伝わりやすい言葉のチョイス、行動の取り方が出来るようになるのではないだろうか。